私がカラテを始めたのは小学2年の夏でした。
合宿から帰ってきた弟が楽しそうだったので私も合宿へ行きたいと思ったのがきっかけでした。 カラテをやりたいというより、道場へ入れば楽しいイベントに参加できるという安易な発想からでした。
バーべキュー大会や、新年会などもあり楽しく毎日の稽古に参加していました。
初めての県外大会は小学3年の秋、皆でバス旅行も兼ね楽しそうだからと京都大会へ出場しました。 結果思いがけず3位入賞したのが嬉しく、その後数多くの大会へ出場することになりました。
しかし段々とカラテが嫌になりました。それは『カラテって人と人が殴りあうだけじゃん。』『私は、何で人を殴らなければいけないの?何で悪いことしてないのに私は、人に殴られなければいけないの?』と疑問が浮かぶ様になっていたのです。続けていた理由は、仲良しの友達と道場で会えるからでした。そんな状況ですから自然とカラテから気持ちが離れていきました
そんな小学5年の時、稽古を頑張っていた仲良しの子が試合で準優勝し、私は3位という結果でこれまでにない悔しさがこみ上げてきました。 そこからは試合に勝ちたいと強く思うようになりました。今までの私だったら何か理由を付けて休んじゃおうかな…という気持ちがありましたが、この頃から時間があったらカラテのことを考え、それから1年間は稽古をすれば試合の結果が付いてくるようになったので自主稽古もするようになりました。
当時の南道場は、師範の海外遠征も多く試合前は師範に稽古のポイントと、課題を教えていただき、師範不在の間も走りこみや、道場の仲間と共にサンドバックの蹴りこみ、補強などのサーキット練習をしました。
結果、全国大会で入賞し、各大会で優勝できるようになった為、小学校卒業時には『七星ちゃんすごいね。頑張っているね。』と大石最高師範に初めて声を掛けて頂きました。
雲の上の存在の方に褒めて頂きとても嬉しかったです。
中学入学すると、吹奏楽部に入部しました。南道場では特待生制度があり迷いましたが、専門的に続けるよりは部活という物をやってみたくて、中学3年間は強くなりたいというよりも、茶帯を締める道場の先輩として責任をしっかり果たしたいと思い、週3回は道場に通うと決めました。やはり稽古回数が減った為、試合に出ても勝つ回数が減りましたが、稽古での号令や、後輩の指導などは少しずつですが出来る様になっていったと思います。
そして1年前に高校に進学しました。 私の入学した学校は部活への入部は強制ではなかったので高校の3年間は特待生として頑張ってみようと決心しました。
高校へ通いながらの特待生は学校生活との両立が想像以上に大変でした。 しかし師範に支えられ、6年生の特待生や道場の先輩・後輩がフォローしてくれたのでやってこれました。
今回の昇段審査のことは去年の夏、師範から『昇段審査受けるよ』と言われました。 私は『無理です。無理です。』と焦って言ってしまいました。正直茶帯をもらった時から1年間はプレッシャーでお腹が痛かったです。
そんな私が受審していいのか悩みました。 さらに『南道場の女性初の黒帯だから』と言っていただき正直戸惑いました。
黒帯ということはすごくプレッシャーになりますが、これから南道場に通い続けて黒帯を締めたいという女の子達の為にも「初」になる事を許されるのではと思いました。
審査までの稽古はきつく大変でしたが、心強かったのは師範も60人の組手に挑戦し6段を取得するために同じ日に受審されるとのことで師範の頑張りを見れたことでした。
また、親と同じ年くらいの太刀川先輩も受審されるとのことで仕事をしながらの稽古はすごいと思いました。 私も頑張らなければと思いました。 また橋本先輩や吉田先輩や一般部の大人の方の胸をかり稽古を乗り切ることができました。
これまで以上に型も頑張りました。 型では後輩たちとも稽古しました。
入門してからこれまで頑張ってこれたのは師範はじめとし南道場の皆様のおかげです。 また父・母・弟にも感謝しています。 今回の審査会で黒帯を締めることを許可いただきましたが、少しは周りの方々にも恩返しが出来たかと思います。
私の空手人生はこれで終わったわけではなくむしろ始まりだと思っています。 これからもこの帯に恥じぬよう、そしてこの場に推薦してくださった柴田師範や認めてくださった大石最高師範に恩返しできるよう、大会に出た時は勝ちたいと思います。
ありがとうございました。 そして応援してくださった皆さんありがとうございました。
これからも宜しくお願いいたします。
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